移民として
Okay. I'd promised a friend that I'd post in Japanese someday. Even the subject was decided, but that is still under way. And I probably won't be able to finish that for the next weeks because of my exams. But as I was (still) cleaning some things from Japan I found a file I used for a presentation about Brazil, focused on the Japanese emigration to Brazil because of the Drama "Haru to Natsu" that was released the same year and had that emigration as part of the background.
So, I'll post part of that file here. It's about the emigration, some problems and realizations that came from it, and comparing to the emigration of Brazilian workers to Japan nowadays. Some topics are incomplete and superficial because of my limitation with the language, my intention wasn't going too deep about it during the presentation and I lack some details about the subject, too. That's just an introductory text. If some interest grows from it, I recommend to look for other sources of information to know the whole picture. I can help on that.
日本からブラジルへの移民は、両国の利益にもとづいて始まりました。日本では人口過密の問題がありましたので、明治時代から移住政策が取られました。ブラジルではコーヒー農園で働くために、労働人口を必要としました。
そして、日本移民は1908年4月28日に笠戸丸船に乗って神戸港からブラジルに向けて出発しました。1908年6月18日にサントス港に到着しました。
第1次世界大戦の後で、日本の経済状況は良くではありませんでした。それに、1番最初移住した国アメリカでは1924年に日本移民の数を制限する法が制定されました。ですから、1928年から、1935年までブラジルへの日本移民はすごく増えました。
ところが、移民たちは多くの困難な状況の中で生活しました。たとえば、悪い衛生状況で働かされました。多くの移民たちは、お金を儲けて、日本に戻りたいだけでした。それに、ブラジル政府は、アジア人より、ヨーロッパ人が来て欲しかったのです。というのは、奴隷制度が廃止された後で、人口の「漂白」(白人)が促進されました。ですから、移住した日本人とブラジル人はあまり融合しませんでした。
それでも、だんだん、自活と権益を守るために、日系移民は協同組合を創設して、小区画地を買いました。
第2次世界大戦の時には、ブラジルは連合軍と同盟国でしたので、日本からの移民は禁止されました。その上、枢軸国の国語を教えたり、その言語で話したり、新聞を発表するのは禁止されていました。ポルトガル語とブラジル文化がほとんど分からない日系人には、そのような政策は情報を与えないことを意味しました。日系人とブラジル人の関係は悪くなりました。
大戦の後で日系ブラジル人は2つの派に分かれました。日本が大戦に勝ったと信じる人々は「勝ち組」と呼ばれ、日本が負けたと信じるのは「負け組」と呼ばれました。(「勝ち組」は約75%でした。)情報が得られない欠けない日系人は、どちらが本当に勝ったか知ることが難しかったのです。日本のラジオ放送局は禁止でしたから、情報はよくポルトガル語を知る日系やブラジル人からだけでした。でも、その情報源を信じない人々がいました。
そらに、「神道連盟」(しんどうれんめい)と言うグループがありました。そのグループは「勝ち組」の出身であった人々によってつくられました。1944年設立した「神道連盟」は、初めは日本文化と天皇のイメージを守る目標がありましたけど、大戦の後で、より急進的になって、日本が大戦に勝ってそうたように見せかけるために雑誌を捏造しました。そして、日本が大戦に負けたと思っていた日系人を暗殺しようとしました。
しかし、ついに、そのグループは解体されました。そして、時間がたって、日系人とブラジル人の関係はよりよくなりました。1960年代から日系人の家族は零細企業を始めました。1970年代にはブラジルと日系の文化が調和するのはもうめずらしいことではありませんでした。そして、現在では昔の偏見はなくなりました。日系人の社会的地位は向上しました。
1980年代に日本の経済は絶頂にありました。工業が八達し肉体労働者は外国に求められました。その外国人は「出稼ぎ」と呼ばれました。1990年代に変化した日本の出入国管理法は日系ブラジル人に有利でした。その法は日系人を優遇しました。ブラジルの日系人の数は世界一でした。それに、ブラジルはその時に経済情勢が悪化していました。
でも、日本人がブラジルへ移住した場合のように日本に移住したブラジル人には、困ることがありました。日本では、言語と文化が違いますから、日本人に似ているけれども、外国人扱いです。それに、日本語を習得する人はほとんどいない。そして、読み書きのできない人はわずかしかいない日本では偏見をもたれてしまいます。
ブラジルに戻っても、困ることがあるかもしれません。日本同じ給料をもらうことはできません。その上、経営の経験がないので、自分の会社を興しても、よく破産させてしまいました。これらのケースでは、その人々はもう一度日本に帰って、お金をもらって、またそのお金はブラジルでなくなって…というふうに、彼らがもうブラジルに戻らないことを決意するまで、その悪循環は続きます。
So, I'll post part of that file here. It's about the emigration, some problems and realizations that came from it, and comparing to the emigration of Brazilian workers to Japan nowadays. Some topics are incomplete and superficial because of my limitation with the language, my intention wasn't going too deep about it during the presentation and I lack some details about the subject, too. That's just an introductory text. If some interest grows from it, I recommend to look for other sources of information to know the whole picture. I can help on that.
日本からブラジルへの移民は、両国の利益にもとづいて始まりました。日本では人口過密の問題がありましたので、明治時代から移住政策が取られました。ブラジルではコーヒー農園で働くために、労働人口を必要としました。
そして、日本移民は1908年4月28日に笠戸丸船に乗って神戸港からブラジルに向けて出発しました。1908年6月18日にサントス港に到着しました。
第1次世界大戦の後で、日本の経済状況は良くではありませんでした。それに、1番最初移住した国アメリカでは1924年に日本移民の数を制限する法が制定されました。ですから、1928年から、1935年までブラジルへの日本移民はすごく増えました。
ところが、移民たちは多くの困難な状況の中で生活しました。たとえば、悪い衛生状況で働かされました。多くの移民たちは、お金を儲けて、日本に戻りたいだけでした。それに、ブラジル政府は、アジア人より、ヨーロッパ人が来て欲しかったのです。というのは、奴隷制度が廃止された後で、人口の「漂白」(白人)が促進されました。ですから、移住した日本人とブラジル人はあまり融合しませんでした。
それでも、だんだん、自活と権益を守るために、日系移民は協同組合を創設して、小区画地を買いました。
第2次世界大戦の時には、ブラジルは連合軍と同盟国でしたので、日本からの移民は禁止されました。その上、枢軸国の国語を教えたり、その言語で話したり、新聞を発表するのは禁止されていました。ポルトガル語とブラジル文化がほとんど分からない日系人には、そのような政策は情報を与えないことを意味しました。日系人とブラジル人の関係は悪くなりました。
大戦の後で日系ブラジル人は2つの派に分かれました。日本が大戦に勝ったと信じる人々は「勝ち組」と呼ばれ、日本が負けたと信じるのは「負け組」と呼ばれました。(「勝ち組」は約75%でした。)情報が得られない欠けない日系人は、どちらが本当に勝ったか知ることが難しかったのです。日本のラジオ放送局は禁止でしたから、情報はよくポルトガル語を知る日系やブラジル人からだけでした。でも、その情報源を信じない人々がいました。
そらに、「神道連盟」(しんどうれんめい)と言うグループがありました。そのグループは「勝ち組」の出身であった人々によってつくられました。1944年設立した「神道連盟」は、初めは日本文化と天皇のイメージを守る目標がありましたけど、大戦の後で、より急進的になって、日本が大戦に勝ってそうたように見せかけるために雑誌を捏造しました。そして、日本が大戦に負けたと思っていた日系人を暗殺しようとしました。
しかし、ついに、そのグループは解体されました。そして、時間がたって、日系人とブラジル人の関係はよりよくなりました。1960年代から日系人の家族は零細企業を始めました。1970年代にはブラジルと日系の文化が調和するのはもうめずらしいことではありませんでした。そして、現在では昔の偏見はなくなりました。日系人の社会的地位は向上しました。
1980年代に日本の経済は絶頂にありました。工業が八達し肉体労働者は外国に求められました。その外国人は「出稼ぎ」と呼ばれました。1990年代に変化した日本の出入国管理法は日系ブラジル人に有利でした。その法は日系人を優遇しました。ブラジルの日系人の数は世界一でした。それに、ブラジルはその時に経済情勢が悪化していました。
でも、日本人がブラジルへ移住した場合のように日本に移住したブラジル人には、困ることがありました。日本では、言語と文化が違いますから、日本人に似ているけれども、外国人扱いです。それに、日本語を習得する人はほとんどいない。そして、読み書きのできない人はわずかしかいない日本では偏見をもたれてしまいます。
ブラジルに戻っても、困ることがあるかもしれません。日本同じ給料をもらうことはできません。その上、経営の経験がないので、自分の会社を興しても、よく破産させてしまいました。これらのケースでは、その人々はもう一度日本に帰って、お金をもらって、またそのお金はブラジルでなくなって…というふうに、彼らがもうブラジルに戻らないことを決意するまで、その悪循環は続きます。
1 comment:
Oro??
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